葬式の思い出:感動と感謝が交わる感慨深いエピソード

44歳女性お葬式に金髪とカラコンで参列したワタシ

15年前の祖母のお葬式に参列したときの出来事です。

お葬式は、結婚式のように予定が決まっているわけではありません。

突然やってきます。

そんな突然やってきた出来事ですが、日頃から心がけておくべきこともあるものだ・・・と実感した祖母のお葬式でした。

当時、20代後半で無職中の私は、毎日が休暇で楽しく過ごしていました。

働いていたときは、朝早くから夜遅くまで仕事ばかりの毎日だったため、仕事を辞めた途端にネジがひとつ外れたようです。

生活習慣も自由気ままなら、身なりも自由気ままです。

髪は金色、目はカラコン。

化粧もフルメイクです。

金髪にカラコンなんて珍しくないと思うかもしれませんが、住んでいる地域が田舎なだけに目立つのです。

けれど、そんなことはお構いなしで、気にもとめず、自由気ままな毎日でした。

しかし、突然その時はやってきたのです。

祖母のお葬式です。

自由気ままに毎日過ごしていると、自分に対しても周囲に対するマナーや作法も自由になってしまうのでしょうか。

何も気に留めることもなく、家族と祖母のお葬式に参列しました。

もちろん、礼服をきて参列はしました。

そこでようやく気がついたのです。

お葬式とは、黒い集団だ!ということを・・・。

もちろん私も、その黒い集団の一員です。

金髪とカラコンが、黒い集団のなかでは、かなり目立つのです。

しかも、祖母が住んでいた地域はかなりのド田舎です。

周囲を見渡しても、髪の色は黒か白髪しか見当たりません。

10年ぶりぐらいに訪れたド田舎では、「あの子誰?」「どこの子?」と、近所の人たちのヒソヒソ声が私の背中をチクチクと差してきます。

唯一の救いは、親戚一同が私の礼服に金髪とカラコンを合わせた姿に大爆笑してくれたことでした。

「さすがだな、その格好」と大笑いです。

お葬式とは、突然やってくるものです。

もちろん、お葬式に金髪とカラコンで参列してはいけませんという決まりはありません。

しかし、お葬式は黒い集団、黒に金髪とカラコンはとても目立ちます。

そして田舎だと、より一層目立ちます。

それを、お忘れなく・・・。

50歳男性、祖父のお葬式で体験した嫌な思い出のこと

50歳会社員男性です。

お葬式で印象に残り忘れなれないエピソードがあり投稿します。

経験したのは、私がまだ幼稚園に通っていた頃の話しです。

当時、母方のお父さんが亡くなり、孫としてお葬式に出席したした。

その時に経験したことが忘れられません。

幼稚園児だった私から見た母方のお父さん、つまり祖父は、無口で気難しい昔ながらの古い戦前の日本人と言った感じであまり良い印象はありませんでした。

でも、普段は一緒に暮らしていなかったので、たまに会いに行くと、笑顔で迎えてくれて、その時の祖父は好きでした。

そんな祖父が亡くなり、お葬式で、葬儀屋の方がマイクで話し始めた時、うちのお父さんや大人達が変なことを言ったのです。

祖父はアイバンクに入っていたようで、亡くなった祖父の目はアイバンクに寄付されたのとことでした。

そんな説明の最中に、うちのお父さんや親戚の男性連中は、アイバンクのことを、愛人バンクとか言い始めて、ちゃかし始めたのでした。

愛人バンクに俺も入りたいとか、愛人バンクで愛人が何人いたのかとか、ニヤニヤ笑いながら不謹慎きわまりなく、幼稚園児の私でも嫌な思いでした。

そんな大人の男性達も、今では殆どの方が亡くなって、この世にいません。

あの世で反省していて欲しいです。

その時は、あまりにも気分が悪かったので、お母さんに話したら、静かにしていなさい、貴方はあんな馬鹿な大人になっちゃダメだよと諭されました。

その時の心情は、正直、泣いて怒りたかったです。

でも、我慢しました。

自分は絶対にあんなふざけた大人にはならないと決意しました。

後悔していることは、やはり、自分の父親には、お葬式で祖父の悪口やふざける仲間に入って欲しくなく、あの場で、やめて欲しいと言うべきだったと後悔しています。

しかし、まだ幼稚園児だったから、そんな勇気はなかったのかもしれません。

いずれにせよ、即座にやめさせたかったのに出来ず、後悔してます。

お爺ちゃん、ごめんね。

もしも、お葬式に場にそぐわない不謹慎な行動をする方がいたら、即座に係の方々に伝えて、改善させる術を取るべきだと思った幼児期の忘れられない出来事でした。

34歳女初めてのお葬式、もう会えないことを知った

30代主婦です。

ずいぶん昔のことになってしまいますが、曽祖父のお葬式がとても印象的で、忘れられません。

曽祖父は、戦後病気を繰り返しつつも90代まで健在だった人で、大人になってから聞く彼のエピソードは「とても気難しく厳格な人だった」という内容がほとんどですが、当時私や兄弟たち曽孫に対してはとても優しく、いつも目尻を下げて優しく話してくれていた記憶があります。

そんな曽祖父は最期には肺炎で亡くなりました。

当時小学校中学年だった私は、亡くなる2日前、曽祖父の入院していた病室にお見舞いに行き、声をかけたのが最後です。

曽祖父はすでに意識がなく、子供心に「もう会えなくなるのかもしれない」と思いました。

けれど病室に集まる親戚たちの重い表情に、それを言葉に出すことはできませんでした。

曽祖父のお葬式は、私が生まれて初めて参列したお葬式となりました。

皆が黒い服を着て集まり、粛々と進むその儀式は日常とは遠く、なんだか異様な雰囲気だなと感じたことを覚えています。

お坊さんのお経を聞くのも初めてで、眠いなあと思ったり、独特の抑揚が面白く思えてしまい、従兄弟たちと笑いそうになるのを必死にこらえました。

曽祖父が亡くなったという現実味はなく、ただ退屈な時間でした。

ですが、棺桶にお花を供える時になって、母に「ほら、お花入れて、ひいおじいちゃんにお別れして」と言われた時、急に悲しさが押し寄せてきました。

ひいおじいちゃん、目を瞑って寝てる。

起きないの?もう話せないの?燃やされちゃうの?どうして?どうして?曽祖父の顔を見たことでそんな気持ちがいっぺんに溢れてきて、涙がこぼれました。

生意気盛りの年頃だった私は両親や親戚の前で泣くことが恥ずかしく、声を押し殺してなんとかこらえようとしましたが、とても涙を止めることはできませんでした。

この先大人になったら、ひいおじいちゃん以外ともこんな風に悲しいお別れをしなくてはいけないの?と、人の死、家族を見送ることについて初めて考えました。

眩しいくらいに晴れた、真夏の日でした。

40歳専業主婦葬儀で雨降って地固まる

私は、二人の子供を育てている、40代の専業主婦です。

私の義理の祖母が亡くなったのは、おととしのことでした。

結婚した当時は健在だったのですが、震災の歳に倒れて寝たきりになってしまいました。

その後は病院のベッドの上で徐々に自我をなくしていき、おととしについに大往生されたのでした。

義母は私の結婚当時から親戚の悪口をよく言っていました。

どうも、遺産相続を契機に、義母の兄弟は仲たがいをしてしまったようでした。

私が嫁に来てから、義理の祖母は足が悪く、よく入退院も繰り返して、健在とは言いつつも、自分の死期がそう遠くはないと思っていたようでした。

自分の頭がしっかりしているうちに、自分の子供たちの仲たがいを治め、子も孫も仲良く顔合わせしたいと、時々親戚に声をかけてはいたようです。

しかし親戚たちは、義母と会うのを嫌がり、ついにそれは叶わないままとなりました。

義理の祖母が倒れてからは、さすがに義母から親戚に見舞いに来るようにと連絡を入れてはいたようですが、それも断られたと、義母はひどく怒っていました。

ただ、後で分かったことなのですが、義母がいない時を見計らって、こっそり義理の祖母の見舞いには来ていたようです。

ただ、義理の祖母が望んだような、一堂に会して仲良く、という日はついに実現しないまま、義理の祖母は亡くなりました。

いざ、葬儀の時。

一体どれほど険悪な空気が流れるのだろうと、部外者の自分はハラハラしながら葬儀にのぞみました。

しかし、いざ親族一同集まってみると、さすがに葬儀の場で喧嘩をするわけにもいかず、誰も彼もみんな穏やかに世間話をしていました。

義理の祖母の望んだ光景は、図らずもその葬儀でようやく実現したのです。

喪主である義母は泣きながら、「母がこのような場を設けてくれたと思います」と挨拶していました。

しかし私は、やはりみんなが少しずつ我慢して、義理の祖母の生前にこの状況を実現してやるべきだったと思いました。

だって、「葬儀で喧嘩するわけにもいかないから」と自分を押し殺して談笑できるということは、その気になればいくらでも我慢して人と付き合えるということなのだから。

30歳女 姑から母子共に虐められ、祖父の葬儀では他人として扱われる

30歳女性独身です。

私が中学2年生の時、父方の祖父が亡くなったのでお葬式を行ないました。

ただ、当時から私達家族と父方の親族は拗れた間柄でした。

と言うのも祖母が母を極端に拒絶しては忌み嫌い、姑として嫁をいじめていたのです。

そして孫である私と姉のことも嫌っていました。

両親は、父が大学生の時に母と出会い交際を始めたのですが、父が大学を中退してしまった過去が起因していたそうです。

祖母曰く父が中退したのは全て母の責任だ、男を誑かした惨めな女と決めつけては母に直接文句ばかり言っていたのです。

また母が子供の頃に片親となった事も気に入らなかったようで「貧乏な家の惨めな奴」と悪口を言っては様々な嫌がらせをしていました。

そしてその母の血を引く孫の立場の私と姉すら忌み嫌い、子供の頃から一度も正月にお年玉を頂いた事がありませんでした。

お年玉は貰えませんが電話で小一時間程祖母と話して正月初めから悪口を言われ続ける、という慣習が我が家には幼少期から定着していたほどです。

勿論祖母と祖父の家に帰省すると家の中で居場所がありません。

ダイニングテーブルには母と子供達は座ることを許されず、夕食は別々に取っていました。

帰省した際に私が転んで怪我をした際もバンドエイドを貰えず、「お前たちの金で買って来い」と祖母に言われコンビニへ買いに向かったことも苦い思い出です。

それ程までに祖母は母を極端に嫌っていたのです。

そんな中祖父が他界し、お葬式を行なうにあたって案内状を作る事になりました。

父は長男なので案内状作りを率先して行ない、祖母と叔母と相談しながら作成していました。

勿論母も葬儀の準備に奔走していました。

ただ母は案内状の作成に参加することを許されていませんでした。

その間は私と姉で祖母の家事を全て担い、率先して手伝いをしました。

祖父の死が両家の歪みをより深くしていると空気で察したので、子供ながらに手伝えることは自分からやろうと思ったのです。

勿論祖母に少しでも自分達に良い印象を持って貰えるように奉仕しようという気持ちもありました。

そして案内状が完成し、私達家族の家にも案内状が届いた時の事です。

案内状を開いた母が絶句していました。

私がどうしたの、と聞くと母から「親族欄に私の名前が無い」と言われたのです。

案内状を実際に見てみると喪主である祖母の名前を筆頭に親族の名前が続くのですが、叔母は旦那さんの名前とお孫さんの名前まできちんと明記されているのですが長男である父だけは父の名前で終わっていました。

つまり長男は「独身」であるかのように書かれ、妻と孫の名前が削除されて排除されていたのです。

明らかに父は単身者で家族を持っていないという書き方で、母子共々祖母から存在すら認めて貰えていないと痛烈に実感しました。

それだけでなくお葬式でもなんと母と私達子供は親族の座る場所に座らせて貰えなかったのです。

葬儀は家族葬で行ないましたが、それでも家族の輪から排除された形でお葬式に参加することを余儀なくされたのです。

当時中学生だった私も流石に違和感と怒りを感じ、そこまで母を憎む祖母の気持ちを理解することが出来ませんでした。

ただ祖父が亡くなって急いで帰省した際も祖母が「到着が遅すぎる!」と私達家族に怒鳴って我々に土下座を要求していました。

勿論孫の立場である中学生の私も祖母に向かって頭を付けて土下座しました。

そのまま申し訳ございませんでしたと何回も謝罪したものです。

そしてその夜は父のご遺体が納められた棺を安置した葬儀屋の一室で過ごすよう祖母に言われ、祖母の家に泊めて貰えませんでした。

無論食事も自分達で用意しましたが、そもそも帰省の便も仕事を止めて急遽帰ってきた父と飛び乗った夜の便でしたので、到着時間は深夜であり特に遅くなった理由もありませんでした。

それでも祖母が帰って来るべきと勝手に定めた時間を過ぎた事で土下座を求められ、家に上がることも許されなかったので本当に悔しく理不尽な気持ちになりました。

このような出来事が起きた上に案内状から母と私達の名前が排除されたとなると母も堪忍袋の緒が切れて、お葬式を終えて都内の家に帰ってからは一度も祖母と連絡を取らなくなりました。

私はその後高校3年生になるまで正月の電話を続けましたが以降は自分から電話に出たくないと父に申し出ました。

あれだけ子供の頃から祖母の悪口に耐えて、子供なら当然貰えると思っていたお年玉を貰えない事に違和感を感じて成長し、かつ母が祖母から罵倒される様を度々見せられてきたのでお葬式の案内状から名前が排除されていた事実は屈辱的でした。

勿論もっと小さい年齢の頃からどんな扱いを受けても祖母に気に入られるよう振る舞っていれば、母もここまで虐められることはなかったのではと後悔もしています。

また母が罵倒されているのを静観していた父に対し、祖母に注意してくれともっとおお願いしていればと後悔しています。

お年玉について私から父に何か言う事はなく、むしろ母が「孫にお年玉をあげるのは通例なのだから貴方からお母様にお願いして欲しい」と代弁してくれました。

なので母への悪口については私が父に注意を促すよう何度も頼み込んでいました。

ただそれも十分ではなかったのかもしれません。

思い返せばもっと祖母に奉仕すれば良かったという事に尽きます。

しかしその反面でそれではまるで奴隷じゃないか、と人格否定を真に受ける事に抵抗も感じていました。

姑が嫁を虐めるというのは世間では当たり前と言っても過言ではないでしょう。

今嫁の立場にいる方や交際中の彼氏のお母さんに良く思われていない方が居ましたら、早期に関係性の円滑化を行なうべきだとお伝えしたいです。

一方的な虐めを一人で解決することは出来ませんし、かと言って虐めてくる姑と面と向かって話し合うことは相当難しい事です。

今後の関係性を左右することにも成りかねません。

しかし私の母のように一度忌み嫌われると姑はとことん家族の輪から排除して来るでしょう。

絶対にとは言いませんが両家の関係が異常な程悪化する恐れも十分にある事、これを解決するためには悔しいですが嫁の方から歩み寄って姑と話し合う事が重要になる事をお伝えしたいです。

祖父のお葬式のように最悪の場合葬儀で親族席に座る事すら許されないケースもあると悪い事例としてお伝えします。

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