42歳女性最低限の形式知らず
自分が高校卒業したぐらいにおばあちゃんが亡くなりました。
生前親が離婚し父親が子供達を引き取ることになったので、急に家事を自分たちでやらなくてはならなくなりました。
そんな子供達を心配してよくご飯など作ってくれました。
身内のお葬式に大きくなってからは初めてのことでしたので、私もとりあえず黒い服を着ていけば良いと思っていました。
なのでストッキングは肌色、バックも黒だったら良いと思いうちにあるエナメル質のピカピカ系のバックを持っていきました。
お父さんもそんな感じで黒い服は良かったものの靴下は適当でした。
お葬式に行くと女性は薄黒いストッキングに黒い日からないバックで慌てました。
ですが、身内はうちの事情が分かっていたので丁寧に注意をいただきました。
そういう最低限のことは今やネットでなにかしら調べられますが当時はまだなかったので親から子へと風習などは子供が恥ぬよう教えていくべきだなっと痛感しました。
まだ身内なのでよかったものの、これが近所などだったら話題になりかねません。
また最近は正座して座る機会が大変少なくなりました。
お寺でお経をあげていただいたのですが、それが長くうとうとしてしまった挙句、お線香をあげるときに足がしびれてしまってとても立てる状態ではありませんでした。
ですが順番なので立ち上がろうとしたときに見事に足の踏ん張りがきかず倒れてしまいました。
身内なのでも前のほうに座ってますし目立ちます。
大好きだったおばあちゃんなのでしっかりと見送りたかったのですが色々反省点のあるお葬式でした。
なので、まずお葬式に出られる前どんな服装がよいか調べる事がよいと思います。
またお経をあげていただいてる間の正座対策など調べていくことが良いと思います。
またお香殿の書き方もやはり結婚式とは違います。
各地方によって形式も違うかもしれません。
ですが大筋は昔から変わらない顔思います。
恥じぬよう、まず下調べされていくほうがよいと思います。
30歳女おばさんの話が止まらない
30歳女、結婚し数年になります。
去年のことですが、夫の仕事関係で懇意にしていただいていた方(以下Aさん)が急逝されました。
前からご病気を患っておられたそうですが、懸命に働いていらっしゃった最中のことで夫ともども私もショックを受けました。
私はそこまで深いプライベートなお付き合いはなかったものの、数回お食事をご一緒させていただいたこともありお葬式には夫と参列することになりました。
身内の小さいお葬式しか経験がなかったので、仕事先の方も大勢いらっしゃると考え、失礼のないよう注意して向かいました。
まだお若い方でご病気で亡くなられたので、参列者の方も沈痛の表情をされていました。
ですがただ1人、せかせかと動き回ってスタッフの方にあれこれ聞いたり指示している年配の女性がおられました。
状況を見るに、どうやら亡くなられたAさんの奥様のお母様、要するに義母に当たる方でした。
笑顔こそありませんでしたが、みなさんが俯いているなか、どこかハツラツとしている雰囲気さえ感じました。
お葬式も終わり、夫とお暇させていただこうかと話し、改めてご家族にお悔やみとご挨拶をすると、たくさん用意しているから是非残ってくださいと昼食をご一緒させていただけることになりました。
恐縮しながらも会場に入ると、皆さんまだ悲しい表情をされていました。
Aさんのお父様が気丈に、しかし涙をこらえながらご挨拶をされ、会食が始まりました。
家族の方からだんだんと昔話が広がって、一緒に働いていた方達やご友人などがAさんの思い出話をしながら、ときおり微笑みも見えながらお料理をいただきました。
その時、あの義母さんが大きな声で「Aくんは次男だったけれど、そういえばうちの次男もね~」とまるで道端でご近所同士の会話のように話し始めたのです。
そしてそこから次男の自慢話を延々と。
挙げ句の果てにはAさんの会社の上司の方に「長男をなんとか雇ってくれないかしら!?急に言っても無理よねえ!」と楽しげに言い放ったのです。
周りはドン引き、上司の方のお顔も引きつっていました。
娘さんであるAさんの奥様は泣きながら退席、それにも気付かず話し続けるお義母さん。
なかなかショッキングな出来事でした。
70歳のおばあちゃんお葬式で激怒!
お葬式と聞いて私がまず思い出すのは、自身の母方の父、おじいちゃんの結婚式です。
この日は未だに忘れられないほどショッキングな一日として脳裏に焼き付いています。
私のおじいちゃんは長崎出身。
若い頃の写真をみても、いつもカラフルなワイシャツにビシッとセンターラインの入ったチノパン。
髪も死ぬ間際までふさふさでしたし、顔立ちもいわゆるイケメンだったと思います。
カラオケが大好きで笑い声が大きく、コミュニケーション上手。
いわゆるハイカラなおじいちゃんでした。
私たちにとっては、気前がよく優しい、本当の良いおじいちゃんでしたが、問題が発覚したのはまさにお葬式の日でした。
それまで、おばあちゃんも私の母も、私に隠していたことがありました。
それは、おじいちゃんにとっておばあちゃんは3人目の奥さんであるということ。
そして、前妻との間に計8人もの子供がいること。
その8人にも平等に資産を分けるとした書を残して死んでいったこと。
つまり、後半は病床に伏していたおじいちゃんを懸命に看護したおばあちゃんの知らないところで、おじいちゃんは前妻との子供にもお金を分けあたえようとしていました。
それに黙っていなかったのが、おばあちゃん。
もともと前妻との間にも確執があったようで、「あんな女の子供に1円もあげる気持ちにはなれない」とかなりのご立腹。
おばあちゃんが怒っている姿を見るのもはじめてだった私は、いたたまれない雰囲気に胸が苦しかったことを覚えています。
結局、お葬式の日には、どこから噂を嗅ぎつけたのかはるばる長崎から(おじいちゃんの最後の地は岡山でした)8人の男女がやってきて、しかも中にはお葬式だというのにも関わらずヒョウ柄のコートで来る女性なんかも居て、おばあちゃんが怒る理由もちょっとばかり分かるような気にもなりました。
「あんたにやるお金はない!私ばかりが面倒みて、あんたらは見舞いの一つもこなかったくせに!」などと親戚の前で叫んでいるおばあちゃん。
周りもおばあちゃんの気持ちが分かるからこそ止めるに止められず、物々しい雰囲気でお葬式は幕を閉じました。
残された者のためにする式だとはよく言いますが、あのケースに至っては、お葬式をしたことがあだとなって悲しい記憶が残っています。
56歳女性実母が他界した56歳になり、実母の葬式を思い出す
28年ほど前の実母のお葬式のことです。
我が家は高台にあり、その頃の暖房といえば、小さな灯油ストーブのみでした。
お通夜に県外の親せきが小さな自宅に集まり、久しぶりの集まりでまた地元の人も多く来てくださり、ちょっとした飲み会がどこそこで始まっています。
伯母や叔父もまだその頃は、50代だったと思います。
明治生まれの祖母も嫁が先に逝き、私の友人にも「これからもよろしくお願いします」と言ってくれました。
私のお腹には、長男が五か月でした。
切迫早産気味で、周りの叔母たちから「元気な子供を産むことだけ考えて」と言われました。
妹は高3でした。
だから、母の葬式の時、ほとんど私は、何もできなくて、おなかの子供にまで気持ちが向かう余裕もないくらいに高3の妹のことも近所の昔から知っているお隣のおばちゃんから「近所でお母さんが亡くなって、そこの子供は行方不明になったから、気を付けなさい」と言われました。
本当に手作りのお葬式に近かったと思います。
近所の方が本当にお通夜は夜遅くまでだれかれ問わず来てくださり、お葬式も自宅でして、お坊さんも祖母が毎月行って婦人会の活動をしているお寺さんで、その和尚様がとてもお酒好きな方で、飲んで帰られるような今では考えられない時代でした。
11月なのにもう冬という感じで寒くて寒くて、ゆっくり寝ることもできなくて、久しぶりに会った一歳年下のいとこやその叔母たちや私の実弟が取り仕切ってくれて、父も好きなお酒を飲んでいました。
空き家になった実家には、もう誰も住んでいません。
祖母が毎日知らない間に草むしりをしてきれいに整えた庭と父が自分の趣味のために作った車庫の隣の部屋は、今も夫が草刈り機で草を刈り、車庫には夫のバイクが止まっています。
父が最後一人になり、自由気ままに遊んだ私物が散乱し、知らない間に裏に小さい頃近所にいた女性が結婚して住んでいました。
父が一人暮らしする頃からもう住んでいたそうです。
今もその女性が車庫の外の県道沿いの木が伸びると女性のご主人が切ってくださいます。
そんな風にいまだに私が知っている人が暮らしている田舎にはまだ母の葬式に来て下さった方々も高齢になっても暮らしています。
私たち夫婦は母の葬式の頃のような近所付き合いはありません。
どういう葬式になるのか考えてみる時、母の葬式を少しだけ思い出してみました。
68歳男性母の葬儀で心に残ったお寺さんの手配について
70歳を前にした年金生活者です。
2年前に母が94歳で他界しました。
父が亡くなり、10年ほど実家で一人暮らしをしていましたが、軽い脳梗塞で歩行が困難となり、最後の2年余りは特別養護老人ホームのお世話になっていました。
父が亡くなった時に、どこの葬儀会館で葬儀を営むのか悩んだ経験があったので、数年前に実家の近くに新しくできた全国展開の葬儀社の積み立て会員に私の名前で加入していたので、悩む事無くその葬儀会館で通夜・葬儀を営む事にしました。
葬儀会館に母の遺体を搬送してもらい、安置所に安置してもらった後で、葬儀社と通夜・葬儀の日程をまず決める事になりました。
葬儀会館に遺体を搬送されたのが午後の3時頃で、できれば翌日に通夜を行い、その次の日に葬儀を営めればと考えました。
葬儀社はすぐに凌焼場に空を確認してくれ、何とか翌々日にスケジュールを確保してもらえました。
私の方は、実家に父の月命日に毎月お参りして下っていた実家近くの寺院に導師のお願いをしました。
しかし、お寺さんはすでに法事の予定が入っており、その日程は難しいとの返答でした。
そんな時にも、少しでも無理を聞いてもらえるように、母が施設に入居している間も、私がお寺さんに月命日にはお寺でお参りをお願いしますと、1年分のお布施をまとめてお渡ししていました。
しかし、そんな効果もなく、お寺さんの都合に合わせて通夜・葬儀は営むべきものだといさめられてしまいました。
その事は十分理解していたのですが、翌日が土曜で、翌々日が日曜日で、母から見た働き盛りの孫達の事を考えると、都合が良いと考えて何とかその日程にしたかったのです。
そのお寺さんに墓地がある訳でなく、実家を処分すると仏壇も私が引き取る事になり、そのお寺さんと付き合う事もなくなります。
そこで葬儀社に同じ宗派のお寺さんを紹介してもらい、導師を務めてもらう事にしました。
葬儀社との間で、お布施の取り決めをされている様で、葬儀社から標準額を参考提示してもらえました。
そのお寺さんを導師として通夜・葬儀・初七日・四十九日法要を営み、その後に性根を抜いてもらい、仏壇を私の家に運び、そこで地元のお寺さんに性根を入れ直してもらいました。
葬儀の場所でバタバタしない様に、事前に積み立て会員として心構えしていましたが、まさかお寺さんの事で、バタバタするとは思いもよりませんでした。
母の葬儀の出来事としては、このお寺さんの件が、今も忘れられない事となっています。